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上坂冬子 『男装の麗人 川島芳子伝』

IMG_2797.jpeg 戦争で人生を翻弄された人物を、綿密な取材でもって、ノンフィクションにする上坂冬子。

 すべてと言っていいほど愛読しているが、『男装の麗人 川島芳子伝』は、中でも強烈な印象を残す。

 ラストエンペラー・愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ)の姪にあたり、本名は愛新覺羅顯㺭(あいしんかくら・けんし)という。

 8歳の時に大陸浪人だった川島浪速の幼女となり、日本で教育を受ける。

 1915年に来日した芳子は、当初、東京の赤羽の川島家から豊島師範附属小学校に通い、卒業後は跡見女学校に進学した。

 やがて、川島の転居にともない長野県松本市の浅間温泉に移住し、松本高等女学校(現在の長野県松本蟻ヶ崎高等学校)に聴講生として通学した。松本高等女学校へは毎日自宅から馬に乗って通学したという。

 美貌の持ち主だった芳子が、男装するきっかけとなったのは、川島浪速に純血を奪われたからという説がある。川島に執拗に追い回されていたというのだ。

 芳子は17歳、川島は59歳で、事実とすれば、川島は42歳の年齢差をものともしなかったことになる。

 コスモスの花の咲く中で最後の写真を撮り終え、「永遠に女を精算した」と言い、その日の午後に郊外の床屋に走って、頭を五分刈りにしてしまう。

 客が子供を連れて、川島家を訪れると、驚いて、まじまじと見ている子供に「今日からお兄ちゃんというのだよ」と芳子は言ったという。

 断髪した後、芳子は、養父の川島浪速と寝室を共にしていたが、ある日、大きな音がして、家人が座敷に駆け込むと、芳子がピストル自殺未遂を起こしたという。

 岩田愛之助という人物がいる。外務省政務局長・阿部守太郎を刺殺した事件に関連して、投獄されていた愛国党の志士である。

 岩田が芳子に求婚した頃、芳子は川島浪速との板挟みで、周囲に死にたいと漏らしていたという。岩田がそれなら死ぬかと、ピストルを渡すと、左胸に向けて、引き金を引いたというのだ。

 岩田は「まさか、本当に撃つとは思わなかった」とのちに供述している。

IMG_7932.jpeg 断髪し、男装するようになった芳子だが、断髪した直後に、女を捨てるという決意文書をしたため、それが新聞に掲載された。

 芳子の断髪・男装は、マスコミに大きく取り上げられ、本人のもとへ取材記者なども訪れるようになり、「男装の麗人」とまで呼ばれるようになった。

 芳子の端正な顔立ちや、清朝皇室出身という血筋は、高い関心を呼び、芳子の真似をして、断髪する女性が現れたり、ファンになった女子が押しかけてくるなど、マスコミが産んだ新しいタイプのアイドルとして、社会現象を巻き起こした。

 芳子が髪を切った大正十三年は、愛新覚羅溥儀が北京を脱出した年である。紫禁城を包囲され、妃と共に自動車で北京の西北へ逃れ、ついにここで、名実ともに一市民となる。

IMG_7930.jpeg 芳子が川島浪速の元を離れて、元通りに髪も伸びた頃、カンジュルジャップという、モンゴル族出身の満州国軍の軍人と、出し抜けに結婚したいと言い出す。

「カンジュルジャップが絶え間なく、手紙を寄越すし、自分も嫌いではないので、結婚しようと思う」と、実兄に結婚の意志を伝えたのだ。

 結婚は昭和二年、式は旅順のヤマトホテルで盛大に行われた。時に芳子、二十歳。カンジュルジャップは、二十四歳であった。だが、この結婚も、三年で終わりを告げる。

 その後、芳子は上海へ渡り、同地の駐在武官だった田中隆吉と交際して、日本軍の工作員として諜報活動に従事し、第一次上海事変を勃発させたといわれている。ここに、東洋のマタ・ハリが誕生した。

 マタ・ハリとは、パリを中心に活躍したオランダ人の踊り子、ストリッパーで、第一次世界大戦中にスパイ容疑でフランスに捕らえられ、有罪判決を受けて処刑された人物だ。

 世界で、最も有名な女スパイとして、代名詞的存在として知られる。

 芳子は美貌の持ち主で、広告塔の役割は果たしたが、諜報活動を実際に行うほどの才覚を持ち得ていたかは疑問だ。この頃、女優の李香蘭を妹のようにかわいがるようになる。

 戦後、間もなく中華民国政府によって、売国奴として逮捕され、銃殺刑となった芳子。

「蒋介石政権には弓を引いたが、中国の民衆には誠心誠意あたってっきたつもりだ」と言ったが、聞き遂げられなかった。

 日中双方での根強い人気を反映して、処刑後も、生存説が流布された。売国奴の処刑は通常なら公開で行われるが、芳子の場合には早朝非公開で行われたというのが、不可解な点の一つ目。

 執行後に公開された遺体は、銃弾が頭部を貫通し、顔面を激しく損傷しており、容貌の正確な判別は困難だった。

 処刑数日前に面談したAP通信のジャーナリストによると、芳子の髪型は短髪だったが、処刑後の写真に写っている遺体の髪は肩ほどまでの長さがあったというのが、不可解な点の二つ目。

 処刑直後に中国の新聞各紙が報じたところによると、監獄に芳子と同年代で、重病で余命いくばくもない女性がいた。

 女性の母親が監獄関係者から娘を身代わりに差し出すことを持ちかけられ、母親は、おそらく愛新覚羅家が用意した、金の延べ棒10本で娘を身代わりにすることを承諾したという。

 しかし、実際には4本しか受け取ることができなかったため、遺族がマスコミに告発したというのだ。国民党政府はこの報道をデマだと否定する声明を発表したが、国共内戦に敗れた国民党が台湾に逃れる過程でうやむやになった。

 生存説を重視したGHQは、各地に調査員を派遣して、関係者に聞き取りをするなどの調査を行ったが結論は出ず、国共内戦で調査は打ち切られた。GHQの調査報告書はアメリカ国立公文書館に保管されている。

 のちにテレビ朝日が特番を組み、芳子の処刑直後の遺体写真から骨格を再現し、生前の芳子の写真からも骨格を再現し、処刑時の写真と比較した。

 芳子は、なで肩であるのに対し、遺体の再現骨格は、いかつい肩をしており、他にも二の腕の長さの違いや骨盤が遺体写真のものは大きく、経産婦だと思われることなどから、「公開された遺体の骨格と生前の芳子の骨格が同一人物である確率は1%以下であり、別人である」という結論を出した。

 陸軍特務機関隊員だった吉薗周蔵の手記によると、戦後、周恩来に面会する日本人に、周に会ったら芳子の生死を尋ねてほしいと頼んだ。

 その日本人が周に尋ねたところ、彼は「そんな事は答えられるわけはないでしょう」と言いながら、指先で○を描き、「このとおりですよ」とだけ語ったという(○は「丸」に通じる)。
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カエルのロビン

Author:カエルのロビン
フリーランスの記者&編集者。星野源と加瀬亮が好きといえばオシャレだと思っている。何歳からアラフィフか母親と協議中。数年分の旅行記と食べ歩き日記を順次アップしていきますので、よろしくお願いいたします。
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